推しが死ぬ

様々な作品の「故・推し」回想録。ネタバレ有。

「ハリー・ポッター」のシリウス

 

 先に書いた記事では「突発性推しの死」のパターンとしてワンピースのエースを挙げたが、こちらもエースに負けず劣らず突発的に死んだ推しである。 

 まあ突発的にだろうがフラグがたってから死のうが、とにかく推しが死に、世界がダークインザダークになることになんら変わりはないのだ。突然真っ暗になるか、徐々に暗雲立ち込め真っ暗になるかだけの違いであって。

 

 


シリウス・ブラック」

 


 そう、多分世界で1番読まれている児童文学、ハリー・ポッターシリーズからのエントリーである。

 独特の世界観や美しい魔法描写の数々、そして推しの存在…ハリー・ポッターシリーズは明らかに他の児童文学とは一線を画した最オブザ高の小説であり、私の青春であった。

 オタクどもはわかってると思うが、ハリー・ポッターシリーズが最高である、という話をしていると天寿を全うするレベルで時間がかかるので(もちろん末期の言葉は「まだ語り足りない」)、ここらで「推しの死」の話に移る。

 そんな目で児童文学を見るな、推しとか気持ち悪いから語るな、と糾弾する人もいるだろうが、そんな奴の口は魔法で塞ぎ(シレンシオ!黙れ!)、私は突き進ませてもらおう。

 

 

 さて、問題の推しは主人公ハリーの名付け親にして公式イケメン、血筋よし、頭脳よし、暗い過去あり、脱獄囚、青年期から監獄にいたから精神年齢が低め、という「いっぱいちゅきポイント」のスクランブル交差点であるシリウス・ブラックである。

 なんだこの属性のてんこ盛り、いいや限界だ、推すね!!!とばかりに私はアズカバンの囚人以来シリウスを激推しし続けて来た。黒髪のイケオジ尊い

 

 そしてその属性萌えの巨星が落ちた日、私のハリポタライフが冥界に沈んだ日、つまり「推しの死」が訪れた時のことであるが、私は今でもありありと思い出せる。当時私はハリポタの新刊とホグワーツからの手紙を心待ちにしている11歳だった。

  第5作の新刊の名前は不死鳥の騎士団、アズカバンの囚人以来のかっこいいタイトルきた…とすでに厨二に片足突っ込んでいた私はワクワクしながら読んだ。 ヴォルデモート卿の復活を信じようとしない魔法界に立ち込める暗雲、クソ教師へのほとばしる不満や若き鬱憤を、闇の魔術に対する防衛術の修行に打ち込むことで昇華する主人公ハリーの青春、水面下で活動するダンブルドア率いる不死鳥の騎士団、そして突然の推しの死である。

 


勘弁してくれよ…

 


 これはおそらく人生初の「推しの死」であった。無垢な少女であった私はまだ「推し」が死ぬようなエグい作品を読んだことがなく、心臓がえぐられるが如くショックを受けた。

 推しが死んだことを理解したその刹那、私は背後にゾルディックさん宅のキルアくんがいるのではと確認した。彼に心臓を抜きとられたとしか思えない痛みが胸に走ったからである。親父ならもっと上手くやるらしいな、なら親父がやってくれ、頼む、心臓が痛すぎるんだ、痛みを感じる前にやってくれ……………


 普通に受け入れ拒否なのである。だって助けに来てめちゃくちゃかっこよかったやん、推しの最高の晴れ舞台感あったやん、推しは指名手配犯だからいつもは派手に立ち回れないんだ、抑圧されてて鬱憤をためてたんだ、なのに……そんな……そんな……むごい…………………

 

 

……この「推しの死ショック」に対し私が行った対抗策は、心頭滅却の修行であった。

 

 

 何十回もハリポタをマラソンして読むのである。血の涙を流す心を殺し、先に待つ悲しみを思うなら4巻以下をループせよと囁く悪魔を殺し、5巻の「下」に伸ばす手の震えを殺すのだ。

 いつしかページをめくる私の手には迷いがなくなり、心に凪が訪れた。眉間にヒマラヤが如くよっていたシワはいつしか鎮まり、ガンジス川を作ろうかという勢いで流れていた涙はとまり、瞳はデカン高原の星空がごとく澄み渡った。

 

 

 すると一種の悟りの境地に達する。「むしろ死は抑圧された推しへの唯一の救いだったのでは?」

 

 推しは全世界に指名手配され、大嫌いな実家に、兄弟が如き親友のいない世界に閉じ込められ、真綿で首を絞められるような抑圧された生活の中で幸せだったのだろうか?

 否、血脈と過度な期待から解き放たれた彼の真の幸せは自由にあり、抑圧された中に彼の喜びはどこにもないのだ。死をもって全ての苦しみから、しがらみから逃れ、自由という真の幸せに到達した推し、それを私のエゴだけで現世に縛り付けていいわけがあろうか。いやない。

 

 

 こうして悟りを開き若干文体も中国古文のように変化したところで、彼の死を「解放」と解釈するに至った私は戦いを終えた。推しの死を乗り越えたのである。

 その顔は慈愛に満ち、推しの死、まさにそのシーンを読みながらもわずかな微笑みさえ浮かべていた。推しが勝ち得た自由に幸あれ。その悟りを祝福するかのように菩提樹はさざめいた。

 

 


  劇的な悟りを終え、もはや「目覚めた」人である私だが、実は未だ「不死鳥の騎士団」の映画を見ることができていない。

 文章だけでも心臓がえぐられるほどの痛みを覚えたのに、映像、つまり視覚・聴覚ダブルアタックで「推しの死」を確認をするなどすれば身体が四散すること確実だからである。

 

 映画を見るためにはさらなる修行の必要性が見込まれる。鍛錬のため、私は仙境・武陵源かどこかにハリポタ全巻を持ち込み山籠りをするべきなのだろう。

 なぜわざわざそんな秘境に行くのか?答えは簡単、推しを思うオタクの苦悶の叫びは四方百里に届き、あらゆる天災地変の原因になりうるからだ。