推しが死ぬ

様々な作品の「故・推し」回想録。ネタバレ有。

「ジョジョ第4部」吉良吉影

 

  推しが死ぬ、第3回からのテーマは「死ぬべきだった推し」である。

 死ぬべき推しなどどこにもいない、推しは生きながらえてこそ、全ての生きとし生ける俺の推しフォーエバー、という方ももちろんいらっしゃるだろう。そういった推し生存原理主義者の方とはここで袂を分かってしまうが、私は推しのタイプによっては「推しの死」すら味わう類の人間である。

この発言の段階で全推し生存過激派の皆様方が我が弱小国家に攻め入り滅ぼさんと鬨の声を上げているのが聞こえてくるが、とりあえず話を続ける。

まず私がこうした推しの死を噛み締め味わい、あまつさえブログすら立ち上げるサイコになってしまった理由の1つに、「推しにヒールが多く、致死率が高すぎる」ことがあげられる。

物語というものはその流れ上、「ヒールの死=終幕」である場合が非常に多い。つまり漫画や映画、なんでも良いがフィクションを楽しんでいるとマイ推しの死がストーリー上不可欠になってくることがしょっちゅうあるのだ。救いなぞ世界にはない。

予定調和とも言えるヒールの推しの死を嘆いたところでクソの足しにもならないことに気がついた私は、あえてこういったヒールの推し、つまり今回のテーマである「死ぬべきだった推し」の死を噛み締め、その死に意味を見出すことで「推しを推し」てきた。

なのでこれから数回はヒールの推しに焦点を当て、その死の意味について考え、前2回とはまた異なる「推しの死」の捉え方について書いていきたいと思う。

 

もはや意味がわからないだろうが様々な愛の形があると思ってフィーリングで読んでくれ。

 

 

 

吉良吉影

 

 

 

さて、ワンピースのエース!ハリポタのシリウス!と「陽」サイドの推しを2回続けてやった後でまさかの「超・陰」サイドの推しの出現である。ハワイの海岸と梅雨の樹海ほども湿度に差がある。

ジョジョ第4部のラスボスにして、完結している1部〜7部に登場する敵の中でも屈指の変態性、端正な顔立ち、そして能力値の高さから非常に人気の高いキャラクターである。

とまあ概要を書いては見たが、これでは推しの肝心な「陰」っぷりがわからんので、ジョジョを読んでない方のためにウィキペディア大先生からの引用を用い説明しておこう。

-表向きは平凡なサラリーマンとして生活しているが、その正体は生まれながらに殺人衝動を持ち、手の綺麗な女性を1983年8月13日(17歳)以降48人も殺してきた連続殺人鬼。

                            (中略)

殺害した女性の手首だけを切り取って密かに持ち歩き、その手に話しかけたり食べ物を持たせたりといった常軌を逸した行動を取る。(引用:Wikipedia 吉良吉影)

こ、これが少年ジャンプに載っていた世界線とは……となるレベルでとんでもない。この推しが死んだ約2年後にルフィが同じ雑誌で「ドン!」をやってたとか何かの間違いとしか思えない。

他にも切った自分の爪を集めるなど、問答無用の「陰」的ヤバさがヤバい推しは、ジョジョ第4部において主人公・東方仗助君の敵、つまりヒールであった。

先にも述べたように推しはだいぶエクストリームな趣味を持つ殺人鬼であるし、こいつは主人公に殺されるぜ…というのは最初からわかっていたが、実際推しの死のシーンを目の当たりにすると、人は息を止めてその死を刮目することとなる。これはある種のさだめなのだ。

ハリポタ教とジョジョ教の2つで出家をしている私がストーリーについて語ると命尽き輪廻に帰る時間がやってきてしまうため結論から言うが、推しは結構普通な感じで死ぬ。しかしその直前、死の寸前に際し推しは圧倒的変態発言を吐き、その今際を読者の記憶に刻み込むこととなった。

問題のシーンを初めて読んだ瞬間のことを明確に覚えている。雷に打たれたような衝撃を受けた私は速やかに本を閉じ、スラム街並みに汚い漫画喫茶の二酸化炭素濃度を20%ほど上げる勢いで息を吐いた。

 

 

「最高かよ…」

 

 

天を仰ぎ私は目を覆った。最高だった。

推しは最後まで己の欲求に素直に、推しらしく生きた。推しが最後まで「推し」たることはオタク最上の喜びに他ならない。そう、推しは最後まで推しらしさ、その精神を貫き、そして散っていったのだ。最高の「推しの死」だ、私もこんな風に死にたい。

しかし賞賛されるべきこの一貫性、誰にも尊ばれることなく「やれやれやっとラスボス倒したぜ」的な感じで物語は終わりに向かって行く。では誰からも祝福されない推しの健闘を、誇り高き精神を、誰が讃えねばならないのか?

そう、私である。

己のある意味、進むべき道を確信した私は推しの死、その瞬間ごとまとめて「推す」ことで推しを讃え、祀ることにした。

 

この推しの死の意味、それは推しが推したることの証明であった。

 

真理を解した私は微笑み、スラム漫画喫茶の薄汚れたドアをくぐって初夏の渋谷へと踏み出した。店員の言葉は早すぎて1言も聞き取れず、会計時カウンターに触れた手は何故か粘ついていたが、私の心は「推しの死」ごと推しを推す喜びに震えていた。

 

 

 

「ハリー・ポッター」のシリウス

 

 先に書いた記事では「突発性推しの死」のパターンとしてワンピースのエースを挙げたが、こちらもエースに負けず劣らず突発的に死んだ推しである。 

 まあ突発的にだろうがフラグがたってから死のうが、とにかく推しが死に、世界がダークインザダークになることになんら変わりはないのだ。突然真っ暗になるか、徐々に暗雲立ち込め真っ暗になるかだけの違いであって。

 

 


シリウス・ブラック」

 


 そう、多分世界で1番読まれている児童文学、ハリー・ポッターシリーズからのエントリーである。

 独特の世界観や美しい魔法描写の数々、そして推しの存在…ハリー・ポッターシリーズは明らかに他の児童文学とは一線を画した最オブザ高の小説であり、私の青春であった。

 オタクどもはわかってると思うが、ハリー・ポッターシリーズが最高である、という話をしていると天寿を全うするレベルで時間がかかるので(もちろん末期の言葉は「まだ語り足りない」)、ここらで「推しの死」の話に移る。

 そんな目で児童文学を見るな、推しとか気持ち悪いから語るな、と糾弾する人もいるだろうが、そんな奴の口は魔法で塞ぎ(シレンシオ!黙れ!)、私は突き進ませてもらおう。

 

 

 さて、問題の推しは主人公ハリーの名付け親にして公式イケメン、血筋よし、頭脳よし、暗い過去あり、脱獄囚、青年期から監獄にいたから精神年齢が低め、という「いっぱいちゅきポイント」のスクランブル交差点であるシリウス・ブラックである。

 なんだこの属性のてんこ盛り、いいや限界だ、推すね!!!とばかりに私はアズカバンの囚人以来シリウスを激推しし続けて来た。黒髪のイケオジ尊い

 

 そしてその属性萌えの巨星が落ちた日、私のハリポタライフが冥界に沈んだ日、つまり「推しの死」が訪れた時のことであるが、私は今でもありありと思い出せる。当時私はハリポタの新刊とホグワーツからの手紙を心待ちにしている11歳だった。

  第5作の新刊の名前は不死鳥の騎士団、アズカバンの囚人以来のかっこいいタイトルきた…とすでに厨二に片足突っ込んでいた私はワクワクしながら読んだ。 ヴォルデモート卿の復活を信じようとしない魔法界に立ち込める暗雲、クソ教師へのほとばしる不満や若き鬱憤を、闇の魔術に対する防衛術の修行に打ち込むことで昇華する主人公ハリーの青春、水面下で活動するダンブルドア率いる不死鳥の騎士団、そして突然の推しの死である。

 


勘弁してくれよ…

 


 これはおそらく人生初の「推しの死」であった。無垢な少女であった私はまだ「推し」が死ぬようなエグい作品を読んだことがなく、心臓がえぐられるが如くショックを受けた。

 推しが死んだことを理解したその刹那、私は背後にゾルディックさん宅のキルアくんがいるのではと確認した。彼に心臓を抜きとられたとしか思えない痛みが胸に走ったからである。親父ならもっと上手くやるらしいな、なら親父がやってくれ、頼む、心臓が痛すぎるんだ、痛みを感じる前にやってくれ……………


 普通に受け入れ拒否なのである。だって助けに来てめちゃくちゃかっこよかったやん、推しの最高の晴れ舞台感あったやん、推しは指名手配犯だからいつもは派手に立ち回れないんだ、抑圧されてて鬱憤をためてたんだ、なのに……そんな……そんな……むごい…………………

 

 

……この「推しの死ショック」に対し私が行った対抗策は、心頭滅却の修行であった。

 

 

 何十回もハリポタをマラソンして読むのである。血の涙を流す心を殺し、先に待つ悲しみを思うなら4巻以下をループせよと囁く悪魔を殺し、5巻の「下」に伸ばす手の震えを殺すのだ。

 いつしかページをめくる私の手には迷いがなくなり、心に凪が訪れた。眉間にヒマラヤが如くよっていたシワはいつしか鎮まり、ガンジス川を作ろうかという勢いで流れていた涙はとまり、瞳はデカン高原の星空がごとく澄み渡った。

 

 

 すると一種の悟りの境地に達する。「むしろ死は抑圧された推しへの唯一の救いだったのでは?」

 

 推しは全世界に指名手配され、大嫌いな実家に、兄弟が如き親友のいない世界に閉じ込められ、真綿で首を絞められるような抑圧された生活の中で幸せだったのだろうか?

 否、血脈と過度な期待から解き放たれた彼の真の幸せは自由にあり、抑圧された中に彼の喜びはどこにもないのだ。死をもって全ての苦しみから、しがらみから逃れ、自由という真の幸せに到達した推し、それを私のエゴだけで現世に縛り付けていいわけがあろうか。いやない。

 

 

 こうして悟りを開き若干文体も中国古文のように変化したところで、彼の死を「解放」と解釈するに至った私は戦いを終えた。推しの死を乗り越えたのである。

 その顔は慈愛に満ち、推しの死、まさにそのシーンを読みながらもわずかな微笑みさえ浮かべていた。推しが勝ち得た自由に幸あれ。その悟りを祝福するかのように菩提樹はさざめいた。

 

 


  劇的な悟りを終え、もはや「目覚めた」人である私だが、実は未だ「不死鳥の騎士団」の映画を見ることができていない。

 文章だけでも心臓がえぐられるほどの痛みを覚えたのに、映像、つまり視覚・聴覚ダブルアタックで「推しの死」を確認をするなどすれば身体が四散すること確実だからである。

 

 映画を見るためにはさらなる修行の必要性が見込まれる。鍛錬のため、私は仙境・武陵源かどこかにハリポタ全巻を持ち込み山籠りをするべきなのだろう。

 なぜわざわざそんな秘境に行くのか?答えは簡単、推しを思うオタクの苦悶の叫びは四方百里に届き、あらゆる天災地変の原因になりうるからだ。

「ワンピース」のエース

「推しの死」、これはあらゆるジャンルにのさばる全オタク共通の苦悩である。

推しが死ぬ、もはや作品の中で推しは泣かず笑わず、推しのささやかな喜びに満ちた尊い新しい1日が作品に刻まれることは未来永劫ないのだ。なんだそれつらすぎる殺す気か。

思えば遠く、オタクになってからさまざまな「推しの死」を経験して来た。正直死の予感はあった推し、青天の霹靂でいきなり死んだ推し、はては「こいつ死んだほうがよくね?」と成り行き的に作者に殺された推し…

推しの死の数ほど涙なしには語れぬエピソードがあり、オタクの苦悩があり、そしてその苦悩に打ち勝ったオタクの戦いがあるのである。

「ワンピースのエース」

映えある第1回目のエントリーはキング・オブ・少年漫画、ワンピースから主人公の兄にして白ひげ海賊団二番隊隊長、火拳のエースである。

バトル漫画なのに人が死なないワンピースにあるまじき死であり、死に際の兄弟のやりとり含め人々に強烈な印象を残した。

と、まずは述べたが私ことエース推しはそのあたりの記憶があまりない。気づくと彼はおらず、謎の喪失感を抱えた私は程なくしてワンピースを読むのをやめた。

おそらくショックのあまり脳が自己防衛反応をとって記憶を曖昧にしたのだろう。私の小さな脳みそにこんな機能が付いていたとはいささか驚きであるが、さらにその小さな脳みそを駆使し、私がエースの死をどのように受け入れたのか、そして乗り越えたのかを思い出していこうと思う。だがまあ、途中で発狂してキーボードを破壊する確率がかなり高いことだけは確かだ。

ワンピースという作品の特性としてオタク以外の読者が多いことがあげられる。非オタクの読者はすぐに「エースが死んだとこまぢ泣いた〜〜」などとさえずる。なんならワンピース・ベストシーンにチョイスしてきやがる。ユニクロはTシャツにしやがる。

だがこっちはまぢ泣いたベストシーンどころでは済まされないのである。人が死なぬ漫画だと安心して推してたらノーガード、死への耐性ポイントゼロの状態でいきなり推しを殺されたんである。

これは丸腰でヒグマのビンタを食らった並みの衝撃といえる。あの弟をかばって致命傷を受けた彼の姿を見た瞬間、凄まじい衝撃が私を襲い、我が首は胴を離れ3メートルほど離れた床に転がった。

それでもなお、彼はまだ死んだと決まったわけではない、助かるフラグだったのにいきなり死ぬわけがない、そうでしょう尾田先生、と首だけになりながらも血眼で続きを読むと目に入る大コマのカット、そして彼の今際の言葉、「愛してくれてありがとう」

これはワンピースを読んだことがない人も聞いたことがあるであろう。ここで一般人は「まぢ泣く」のだろうが、私の心は瞬く間に怒りに満たされ泣くどころではなかった。

ふざけるな、そんな最期の言葉みたいなこと言うのはやめろ、お前はまだ助かる、そうだろ、天下の火拳のエースがそんな弱音吐くな、まだ子供な弟にはお前が必要なんだよ、お前が支えてやってくれ、遠くからでいい、見守ってやってくれ、頼むよ……

しかし我が祈りはマリンフォードによる白波に消され、推しは死に、私のささやかな脳みそに刻まれた記憶も消され、この壮絶な「推しの死」は幕を閉じた。

それからおおよそ6年の月日が経った今、改めて考察をしたが私は今だエースの死を乗り越えられていない。実際、エースの死、とうちこみながら「?エース??の??死???」とこの文字列に脳が拒否反応を示しているのを感じる。

先ほども述べたが私はエースが死んでからワンピースを読むのをやめた。なぜならあいつがいない世界、エースが笑い、仲間について語り、幸せそうに食べることのない世界に用は無く、無情にも突きつけられる「エースの死を受け入れつつある世界」を許容することができないためである。

こうして「あえて受け入れず記憶を消す」という形で悲しみの侵攻を食い止め、心を守ることで私の「推しの死」との戦いは終わった。

一種の防衛本能で消した記憶を無理やり呼び覚ました結果、頭痛がしてきたので一度ここで筆を置き、改めて記憶の改ざん作業に入りたいと思う。

「推しの死」を再びコールドスリープに入れるのだ。いつか「推しの死」の壁を超えられる日が来るまで。