推しが死ぬ

様々な作品の「故・推し」回想録。ネタバレ有。

「ワンピース」のエース

「推しの死」、これはあらゆるジャンルにのさばる全オタク共通の苦悩である。

推しが死ぬ、もはや作品の中で推しは泣かず笑わず、推しのささやかな喜びに満ちた尊い新しい1日が作品に刻まれることは未来永劫ないのだ。なんだそれつらすぎる殺す気か。

思えば遠く、オタクになってからさまざまな「推しの死」を経験して来た。正直死の予感はあった推し、青天の霹靂でいきなり死んだ推し、はては「こいつ死んだほうがよくね?」と成り行き的に作者に殺された推し…

推しの死の数ほど涙なしには語れぬエピソードがあり、オタクの苦悩があり、そしてその苦悩に打ち勝ったオタクの戦いがあるのである。

「ワンピースのエース」

映えある第1回目のエントリーはキング・オブ・少年漫画、ワンピースから主人公の兄にして白ひげ海賊団二番隊隊長、火拳のエースである。

バトル漫画なのに人が死なないワンピースにあるまじき死であり、死に際の兄弟のやりとり含め人々に強烈な印象を残した。

と、まずは述べたが私ことエース推しはそのあたりの記憶があまりない。気づくと彼はおらず、謎の喪失感を抱えた私は程なくしてワンピースを読むのをやめた。

おそらくショックのあまり脳が自己防衛反応をとって記憶を曖昧にしたのだろう。私の小さな脳みそにこんな機能が付いていたとはいささか驚きであるが、さらにその小さな脳みそを駆使し、私がエースの死をどのように受け入れたのか、そして乗り越えたのかを思い出していこうと思う。だがまあ、途中で発狂してキーボードを破壊する確率がかなり高いことだけは確かだ。

ワンピースという作品の特性としてオタク以外の読者が多いことがあげられる。非オタクの読者はすぐに「エースが死んだとこまぢ泣いた〜〜」などとさえずる。なんならワンピース・ベストシーンにチョイスしてきやがる。ユニクロはTシャツにしやがる。

だがこっちはまぢ泣いたベストシーンどころでは済まされないのである。人が死なぬ漫画だと安心して推してたらノーガード、死への耐性ポイントゼロの状態でいきなり推しを殺されたんである。

これは丸腰でヒグマのビンタを食らった並みの衝撃といえる。あの弟をかばって致命傷を受けた彼の姿を見た瞬間、凄まじい衝撃が私を襲い、我が首は胴を離れ3メートルほど離れた床に転がった。

それでもなお、彼はまだ死んだと決まったわけではない、助かるフラグだったのにいきなり死ぬわけがない、そうでしょう尾田先生、と首だけになりながらも血眼で続きを読むと目に入る大コマのカット、そして彼の今際の言葉、「愛してくれてありがとう」

これはワンピースを読んだことがない人も聞いたことがあるであろう。ここで一般人は「まぢ泣く」のだろうが、私の心は瞬く間に怒りに満たされ泣くどころではなかった。

ふざけるな、そんな最期の言葉みたいなこと言うのはやめろ、お前はまだ助かる、そうだろ、天下の火拳のエースがそんな弱音吐くな、まだ子供な弟にはお前が必要なんだよ、お前が支えてやってくれ、遠くからでいい、見守ってやってくれ、頼むよ……

しかし我が祈りはマリンフォードによる白波に消され、推しは死に、私のささやかな脳みそに刻まれた記憶も消され、この壮絶な「推しの死」は幕を閉じた。

それからおおよそ6年の月日が経った今、改めて考察をしたが私は今だエースの死を乗り越えられていない。実際、エースの死、とうちこみながら「?エース??の??死???」とこの文字列に脳が拒否反応を示しているのを感じる。

先ほども述べたが私はエースが死んでからワンピースを読むのをやめた。なぜならあいつがいない世界、エースが笑い、仲間について語り、幸せそうに食べることのない世界に用は無く、無情にも突きつけられる「エースの死を受け入れつつある世界」を許容することができないためである。

こうして「あえて受け入れず記憶を消す」という形で悲しみの侵攻を食い止め、心を守ることで私の「推しの死」との戦いは終わった。

一種の防衛本能で消した記憶を無理やり呼び覚ました結果、頭痛がしてきたので一度ここで筆を置き、改めて記憶の改ざん作業に入りたいと思う。

「推しの死」を再びコールドスリープに入れるのだ。いつか「推しの死」の壁を超えられる日が来るまで。